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「学術会議人事に対する政権の介入は、学問の自由への侵害のみにとどまりません。
これは、表現の自由への侵害であり、言論の自由への明確な挑戦です。(中略)今回の任命除外を放置するならば、政権による表現や言論への介入はさらに露骨になることは明らかです。もちろん映画も例外ではない」さらに、ナチスに抵抗し、強制収容所に送られたドイツの牧師マルティン・ニーメラーの有名な詩を引用後「私たちはこ
の問題を深く、また自分たちの問題と捉え、ここに抗議の声を上げます。」
私たちは、日本学術会議への人事介入に強く抗議し、その撤回とこの決定に至る経緯を説明することを強く求めます」と宣言。
是枝裕和監督(写真)、塚本晋也監督、想田和弘監督、
三上智恵監督ら22名。
サーロー節子さん 各国首脳に手紙
「核兵器禁止条約 批准を」
広島市出身の被爆者で、カナダ在住のサーロー節子さん(88)は、世界197カ国の首脳に核兵器禁止条約の批准や推進を求める手紙を送りました。ノーベル平和賞を受賞した国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)の被爆75年キャンペーンの一環として、ICANを代表して書いたものです。
安倍晋三首相にあてた6月24日付の手紙は、唯一の戦争被爆国の日本政府が禁止条約への署名・批准を拒んでいることは「被爆者の一人として裏切られた気持ち」と批判し、被爆75年にあたって政策を転換し、禁止条約への署名・批准に取り組むよう求めています。
手紙はまた、13歳での被爆体験をつづり、「非人道的、非道徳的で残酷な私たちの体験を他の誰一人にもくり返させてはならない」と強調。「日本が、自国の安全のためには核兵器による保護が必要であると恥ずかしげもなく公言し続けることは、核兵器廃絶のために行われているあらゆる努力を台無しにするものです」と指摘し、「日本は、自らの歴史的、世界的、道徳的責任を自覚し、核兵器に依存した政策と決別しなければなりません」と訴えています。
日本国憲法の「平和主義」は特徴的? 9条の内容とは
2018.6.18 11:30AERA#ジュニアエラ#朝日新聞出版の本#読書
外国にも憲法で「戦争をしない」と定めている国はいくつかあるけれど、日本国憲法が掲げる「平和主義」は特徴的だ。いまこの「平和主義」の条文が改憲論議でも注目されている。毎月話題になったニュースを子ども向けにやさしく解説してくれている、小中学生向けの月刊ニュースマガジン『ジュニアエラ』に掲載された、首都大学東京教授で憲法学者の木村草太さん監修の解説を紹介しよう。
■憲法9条で約束する戦争の放棄
日本国憲法9条が規定する「戦争の放棄」は、国内外で多くの死者を出した戦争への強い反省から生まれたものだ。憲法前文では「戦争という過ちを二度と繰り返さない」と誓い、第2章9条では「戦力」を持たないことを定めた。日本が再び戦争をしないように、諸外国には例を見ない厳しい軍事・戦争に関するコントロールを導入しているのが特徴だ。この憲法9条は日本という国のありかたを世界にアピールする外交宣言としての意義もある。
【メモ】
日本はアメリカと1951年に日米安全保障条約をサンフランシスコ講和条約とともに結んだ。戦後、アメリカを中心とした連合国軍の占領が終わった後も米軍基地を日本国内に置くことを認め何か起きたときに自国をアメリカに守ってもらうという政策をとっている。
■戦力は持たない使わない?
憲法で戦争を放棄したものの、他国が日本を攻めてきたときはどうするのか。国際連合(国連)加盟国のルールである国連憲章では、争いごとが起きた場合、例外的に国家として武力を使うことが、三つの場合において許されている。
歴代の日本政府は、憲法9条は、国際関係におけるあらゆる武力行使を禁止するものと読めるとしつつ、国民の平和的生存権を宣言した前文や、生命・自由・幸福追求の権利を国政の上で最大限尊重すべきとした13条を根拠に、日本が武力攻撃を受けた場合に、防衛のための必要最小限度の実力を行使することは憲法9条の「例外」として許されるとしてきた。また、自衛隊のような自衛のための必要最小限度の実力組織は、9条2項に言う「戦力」には当たらないと解釈してきた。ただし、憲法13条などには、国民の権利を守れとは書いてあるが、外国の防衛を手伝えとは書いていない。だから、それまで政府は、集団的自衛権は行使できないとしてきた。だが、2014年の解釈変更と、それに基づく15年の安全保障関連法(安保法制)の成立で集団的自衛権の行使を一部できるようにした。これには、憲法違反だという批判も根強い。(解説/首都大学東京教授、憲法学者・木村草太)
■9条ってどんな内容なの?
<第9条1項
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2項
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。>
日本国憲法が施行されたばかりの1947年につくられた中学1年生用の教科書が『あたらしい憲法のはなし』だ。憲法9条がうたっている「戦争の放棄」について書かれているよ。その一部を読んでみよう。
こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。
※旧字体は新字体に直してあります。
国際法上、武力行使が許される三つの場合】
国際法で認められる「自衛権」にはどんな種類があるのだろう。
<自国がやられたら最小限の自衛をする>
(1)個別的自衛権
自国が武力攻撃されたときに反撃する権利。国連憲章51条で規定されている。
<被害国の救援要請に応じ防衛を援助する>
(2)集団的自衛権
武力攻撃を受けた被害国から要請があった場合に、自国が攻撃されていなくてもその国の防衛を援助する権利。日本は2014年の解釈変更まで行使が認められていなかった。
<国連決議によって侵略を防ぐ>
(3)安保理(※1)決議による集団安全保障
侵略を行った国に、国連加盟国が団結して制裁する。日本は武力を用いる国連軍・多国籍軍の活動への参加は認めていない。
【憲法9条の解釈はどう変わってきたの?】
日本国憲法が施行された当初から、日本が武力攻撃を受けた場合の自衛の措置は憲法で禁止されないと解釈されてきました。2014年まで、日本政府の武力行使に関する解釈は一貫していました。
<1945年~50年代:自衛隊の誕生>
1950年の朝鮮戦争をきっかけに、アメリカは日本にある程度の軍事力を持つよう要請、再軍備される。9条の下でも個別的自衛権は認められるとして、54年に「自衛隊」が誕生。
<1990年代:武力行使に至らない後方支援>
1990年代には北朝鮮の核の脅威が高まる。周辺国で危険がある場合、日本が攻撃される前でも、日本は米軍の後方で支援ができる「周辺事態法」が99年に成立。
<2000年代:イラク戦争における後方支援>
2003年のイラク戦争の際、アメリカは日本に自衛隊派遣を要求。日本は「イラク特別措置法」などを成立させ、これに応じた。しかし、集団的自衛権の行使は違憲としていたため、非戦闘地域での支援にとどめた。
<2014年~:集団的自衛権を認める解釈変更と立法>
安倍政権の下、2014年、集団的自衛権の行使を認めるために、憲法解釈を変更する閣議決定が行われた。翌年に「安全保障関連法」が成立。16年から南スーダンで国連平和維持活動(PKO)(※2)に参加していた陸上自衛隊に新任務の「駆けつけ警護」の仕事が加わった。
※1 安保理=安全保障理事会。国連の主要機関で、世界の平和と安全を守る任務がある
※2 国連平和維持活動(PKO)=国際的な平和や安全を維持するための、国連決議に基づく活動
【キーワード:国際連合(国連)】
第2次世界大戦後の1945年10月、国際的な平和や安全を維持するために発足した国際機構。2018年5月現在、193カ国が加盟。
【キーワード:自衛隊】
日本の平和と独立を守り、国の安全を保つため、1954年につくられた防衛組織。現在、日本の防衛費は年5兆円を超え軍事費の世界トップ10に入るといわれるが、軍事費とは性質が違うという議論も。自衛隊の装備や活動が「自衛のための必要最小限度の実力」を超えているのではないかとの意見もある。
※月刊ジュニアエラ 2018年6月号より
人権とは
この世に生きるすべての人は、性別、国籍、年齢を問わず、生まれながらにして、かけがえのない価値を持っています。同時に、一人ひとりがみな「人間らしく生きる権利」を持っています。この権利は平等であり、決して奪うことはできません。
この権利を社会全体で守り、尊重することによって、より多くの人びとが平和に、そして自由に暮らせる社会が築かれるのです。この人間のための権利。それが「人権」です。
「人権」ときくと、自分の生活とは関係のないものと思われるかもしれません。しかし実は、私たちの日々の生活を支える、とても身近で大切なものです。ここでは、人権が私たちの暮らしや社会とどう結びついているかを、「権利」という概念をまじえ、考えていきます。
自分の思ったことを自由に口にすること、自分の選んだ宗教を信じること、自由に学ぶこと、自分の選んだ人と結婚すること、好きな服を着ること、好きな音楽を聴くこと、病気になったら医療を受けること。これらはすべて、私たちが持っている「人権」です。
たとえば、政府の政策がおかしければ、私たちは、「それはおかしい」と言うことができます。子どもたちはみな、学校で自由に勉強することができます。高熱で苦しければ、病院にいって医師に診てもらうことができます。好きな人と結婚するのも自由。仏教、キリスト教、イスラム教など、自分が信仰したい宗教を選ぶのも、基本的には自由です。
憲法で保障され、今の日本では、「あたりまえ」だと思われているこれらの人権。しかしこれらは、ずっと「あたりまえ」だったわけではありません。これらの人権を「あたりまえ」にしたのは、これらの人権がないために苦しんできた無数の人びとの願いと命をかけた努力なのです。
「権利」って、なんだろう?
「人権」というものは、言葉が示すとおり、権利の一種です。では、そもそも権利とは何でしょうか? 実は、人権を正しく理解するには、「権利」というものをしっかりと理解することが重要になってきます。
権利とは、何でしょうか?少し難しいですが、権利とは「社会全体が護るべき基準(ルール)にのっとり、求めることができるもの」ということができます。
似たような概念として、「道徳」や「倫理」といったものが挙げられます。ただし、「権利」が両者と決定的に異なる点があります。それは、「(誰かに)実現することを要求できる」という点です。権利については、実現しなくてはならない責任者がいるのです。
権利にはいろんな性質のものがあります。私たちは、買い物をするときに代金を払えば何かを所有する権利が生まれますね。カバンを買って代金を払ったのに、カバンを渡してもらえないようならば、私たちは裁判に訴えることができます。権利があるから、私たちはそれを実現してもらうように求めることができるのです。
人権は、いろんな権利の中でも特別に重要な権利です。人間が人間らしく生きるために必要な権利だからです。だから、どんな人間でも、代金を払わなくても求めることができるのです。
世界人権宣言(仮訳文)
前 文
人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、
人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには法の支配によって人権保護することが肝要であるので、諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要であるので、国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約したので、これらの権利及び自由に対する共通の理解は、この誓約を完全にするためにもっとも重要であるので、よって、ここに、
国際連合総会は、
社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。
第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
第二条
1 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
2 さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。
第三条
すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。
第四条
何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。
第五条
何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。
第六条
すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。
第七条
すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。
第八条
すべて人は、憲法又は法律によって与えられた基本的権利を侵害する行為に対し、権限を有する国内裁判所による効果的な救済を受ける権利を有する。
第九条
何人も、ほしいままに逮捕、拘禁、又は追放されることはない。
第十条
すべて人は、自己の権利及び義務並びに自己に対する刑事責任が決定されるに当っては、独立の公平な裁判所による公正な公開の審理を受けることについて完全に平等の権利を有する。
第十一条
1
犯罪の訴追を受けた者は、すべて、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律に従って有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。
2
何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない。また、犯罪が行われた時に適用される刑罰より重い刑罰を課せられない。
第十二条
何人も、自己の私事、家族、家庭若しくは通信に対して、ほしいままに干渉され、又は名誉及び信用に対して攻撃を受けることはない。人はすべて、このような干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。
第十三条
1
すべて人は、各国の境界内において自由に移転及び居住する権利を有する。
2
すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する。
自由権
憲法
自由権とは?3つの自由や判例を簡単解説
投稿日2020.4.20
最終更新日2020.06.2
自由権とは、私たちの行動が国や他の者から理不尽に束縛や介入されないよう守ってくれる権利のことです。
つまり、国に対して「私たちの邪魔はしないで欲しい」というようなことを言えるわけです。
しかしこれだけでは、具体的にどのような自由が権利として守られているのか見当がつきませんよね。
そこで今回は、
* 自由権の概要
* 具体的な自由
* 判例
などを取り上げながら、自由権について丁寧に解説します。
本記事がお役に立てば幸いです。
1、自由権とは
自由権とは、国による理不尽な介入や干渉、弾圧もなく、個人が自由に生活できる権利です。
国の強い弾圧に対して起こした18~19世紀のヨーロッパの市民革命によって、この権利が獲得されました。
日本における基本的人権は「自由権」「社会権」「平等権」「参政権」「請求権」に大きく分類でき、どれも国による理不尽な侵害は許されません。
なかでも重要なのが「自由権」と「社会権」です。
2つの権利の大きな特徴は、国への求め方が異なっているという点。
つまり、積極的に国に保障などを求めるのが社会権で、国から距離を置くやり方が自由権なのです。
社会権とは?4つの権利を判例・学説と共に簡単解説
社会権とは、私たちが人間らしい生活を送るために必要な様々な権利のことを指します。 しかしこれだけでは、大まかすぎて社会権に対して具体的にイメージすることができませんよね。
そこで、今回は 社会権を構成する4つの権利 学説・判例 などを取り上げながら、具体的に社会権とはどのようなものなのか、わかりやすくご紹介いたします。
1、社会権とは 社会権とは、人間らしい生...さらに自由権は「精神」「人身」「経済活動」の3つの自由に分かれ、とくに「精神の自由」が優位的な権利と言われています。
3つの自由について詳しく見ていきましょう。
2、精神的自由権
自由に物事を考えたり表現したり、活動にしたりできる権利のことを「精神的自由権」と呼びます。
日本では、他人に害を与えないのであれば、基本的にどのような考え方をしていても国が介入して罰する事はできません。
自由が認められるものは、以下のように大きく5つに分類されます。
* 思想・良心の自由
* 信教の自由
* 学問の自由
* 表現の自由
* 集会・結社の自由
それでは、条文とともに権利内容を見ていきましょう。
(1)思想・良心の自由
まずは条文からみておきましょう。「思想・良心の自由」は、憲法第19条で守られています。
第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(出典 日本国憲法)
19条には心の中でいかなる思想や人生観をもっていても法律では処罰されないとあります。
物事の善悪は自分で判断することができ、その心の中に国家は介入してはならないのです。
たとえば、「いつか世界を俺のモノにしてやる!」など自分勝手なことでも、心の中で考えているだけなら警察に捕まりません。
また、思想の違う政治団体が別の政治団体の思想を批判しても捕まりません。
このように、不謹慎なことを考えたり相手を批判したりしても処罰されないのは、19条の存在のおかげなのです。
(2)信教の自由
「信教の自由」は、憲法第20条で守られています。
第二十条
第1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
(出典 日本国憲法)
第1項では、特定の宗教を信じる、信じないは自分で好きにして良いという内容です。
そして、どの宗教団体も国から特権の享受および政治権力の行使は禁じられています。
つまり、日本では政府と宗教は密接に関わってはいけないのです。
このことを「政教分離の原則」と言います。
第2項ではお祈りや儀式など宗教以上の行為に対する強制を、第3項では国の宗教教育や宗教的な活動を禁止しています。
たとえば、公立中学校で祈りの儀式の時間を設けて強制的に参加させた場合は違反行為になります。
これも「政教分離の原則」に則っているといえるでしょう。
このように、国と宗教は密な関係性を持たないことが原則ですが、関わりを断つのが難しい場面も少なくありません。
そのため実際に裁判例も多く、なかでも有名な判例は「津地鎮祭事件」や「愛媛玉串料訴訟」です。
ちなみに、首相が靖国神社など特定の宗教施設に参拝する行為は、個人的な立場からの参拝ということになっています。
(3)学問の自由
「学問の自由」については、憲法第23条で守られています。
第二十三条
学問の自由は、これを保障する。
(出典 日本国憲法)
23条は、国からの干渉を受けずに自由に学問や研究をしてかまわないという内容です。
ここには、学問研究や研究発表、教授の自由も含まれています。
イメージ的には、19条「思想・良心の自由」や21条「表現の自由」の学問バージョンですね。
実は世界を見ても、個人の学問の研究や発表、教授に対する自由の保障を憲法で認めている国はそう多くありません。
では、なぜ日本は学問について明文化しているのでしょうか。
それは、大日本帝国憲法下の戦前で政府は個人の学問を強く弾圧していたからです。
戦前は、学問さえも取り締まりの対象だったのです。
そのため、反省の意を込めて戦後の日本国憲法にあえて明文化されました。
(4)表現の自由
「表現の自由」は、憲法第21条で守られています。
第二十一条
第1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
第2項 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
(出典 日本国憲法)
21条では、国に制約や侵害されずに自分の意見や主張を表現できる自由について述べていいます。
この権利のポイントは、個人のみではなく団体にも当てはまるということ。
つまり、集会や結社、出版や報道、映画なども表現の自由に含まれます。
「私は、今の日本は○○するべきだと思う!」と自分の考えをブログや本などで公開しても良いわけです。
いくら国に都合が悪くても、警察による強制的な取り調べや出版禁止などの検閲措置は認められていません。
表現の自由は、いかなる民主主義にとっても原動力であるといわれるほど重要な権利です。
そのため、自由権のなかでもとくに大切になれ、手厚く憲法で保護されています。
ですが、いくら自由だからといっても周りの迷惑になる行為は制約されるので注意しましょう。
(5)集会・結社の自由
「集会。結社の自由」も、上記の憲法第21条で守られています。
国民がさまざまな意見に接したり交換したりする集会や結社は、大切な場ですよね。
そのため、集会の自由は民主主義における重要視すべき権利のひとつと考えられています。
ちなみに、どちらも集団で活動するものですが、集会は一時的、結社は継続的な団体を指します。
ただし、集会や結社の自由があるからといって、制限が無いというわけではありません。
集会することで他の人の人権を害するおそれがあるときには、一定の制約を受けることになります。
例えばデモを行う際には事前に許可を取らなくてはいけません。
3、身体的自由権
「人身の自由」ともいわれる身体的自由権は、「奴隷的拘束の禁止」と「法の適正な手続き」の2つから成り立っています。
それでは条文からみていきましょう。
「身体的自由権」は、憲法第18条と第31条で守られています。
憲法十八条
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
憲法三十一条
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
(出典 日本国憲法)
身体的自由権は、正当な理由もなしに逮捕や刑罰などはされないとする権利です。
とくに31条は刑罰を科す場面を想定したもので、「法の適正な手続き」に則らなければ国民の人身の自由を奪ってはならない、と身体的自由権の基本原則を定めています。
たとえば、現行犯以外では、裁判所の令状がなければ逮捕や家宅捜索はされません。
ほかにも、取り調べ中の黙秘権や刑事裁判での被告人の権利である国選弁護人制度。
自白の強要、残虐な刑罰の禁止などもこの権利を根拠にしています。
4、経済的自由権
「職業選択」や「住む場所」、金銭や土地などの「財産」への権利のことをまとめて、「経済的自由権」といいます。
住環境の悪化や格差の拡大などの影響から、ほかの自由と比較すると法律で制約される度合いが大きい点が特徴です。
それでは、ひとつずつ確認していきましょう。
(1)職業選択の自由
「職業選択の自由」は、憲法第22条1項が根拠となっています。
第二十二条
第1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
(出典 日本国憲法)
22条1項は、国民はどのような職業を選んでいいという「選択の自由」と、実際にその職業で「営業する自由」についての内容です。
このとき注意すべきは「この自由は公共の福祉に服する」という部分です。
つまり、経済的自由権はケースによっては規制されうる権利であるというわけです。
ここでいう規制の種類は、大きく分けて2種類あります。
①消極的目的規制
「消極的規制」とは、国民の安全を守るために最小限のことだけを規制するものです。
たとえば、弁護士として働きたいなら、司法試験に合格する必要があります。
試験が不合格になることはあっても、国が「あなたは弁護士になってはだめです」と理不尽に介入してくることはありません。
この場合、試験が規制にあたります。
このように何の知識もない人が弁護士になることで国民の安全や秩序を脅かされないようにする規制を、消極的規制といいます。
②積極的目的規制
「積極的規制」とは、経済的バランスを確保し、社会的弱者を保護するための規制です。
たとえば、電気やガス、鉄道やバス事業の許可制がこれに当たります。
これらの供給は誰がおこなっても構いませんが、価格が高騰すると経済的弱者が困窮してしまいます。
国民の利益に関わるため、国が積極的に介入して一定の規制をおこなっているのです。
(2)居住移転の自由
憲法第22条1項では、「居住移転の自由」についても述べています。
居住移転の自由とは、どのような場所に住んでも引っ越しても構わないというもの。
この権利には、国内旅行の自由も含まれています。
近年、居住移転の自由権は経済的自由権の面だけでなく精神的、人身的な要素も併せもっていると考えられています。
(3)海外渡航の自由
第二十二条
第2項 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
(出典 日本国憲法)
憲法第22条2項は、海外への移住や外国籍の取得の人権について書かれています。
「公共の福祉に反しない限り、外国に自由に移住できますよ」という権利です。
この自由には、長期だけでなく短期の海外旅行をする自由も含まれていると考えられています。
だから、私たちは海外旅行に行けるのですね。
もっとも海外旅行にはパスポートが必要ですが、一定の場合は外務大臣が発給を拒否する場合がある、と旅券法13条に定められています。
国籍離脱に対する自由についても認めています。
なので、国民はいつでも日本国籍を抜けてかまいません。
ただし、無国籍になることまでは認めていないため、離脱後はかならずどこかの国籍を取得する必要があります。
また、外国人に関しては、日本に在留する外国人には出国の自由がありますが、再入国の自由については争いがあります。
5、自由権の関わる訴訟事例
最後に、自由権の争われた訴訟事例について紹介します。
(1)津地鎮祭事件
「津地鎮祭事件」は、三重県津市が地鎮祭にて神主に支出した公金が発端になっています。
この公金の支出が政教分離の原則に反しているのでは、と津市の議員が訴訟を起こしたのです。
この事件の争点ポイントは、以下の2つです。
* 政教分離の原則はどこまで厳格に要求しているのか?
* 違憲と判断する基準はなにか?
最高裁判所は、議員の訴えに対して「慣習的」なものとして合憲と認定しました。
政教分離の原則は、国と宗教の関わりをゼロにするのではなく、度が過ぎていなければ合憲とする、と判断したのです。
そして、20条3項にある宗教的活動とは、その目的に宗教的意義があり、宗教への援助や干渉、圧迫などにつながる行為を指すとしました。
このように、20条3項にある「宗教的活動」に当たるかどうかを判断するものを目的効果基準といいます。
(2)東大ポポロ事件
憲法が定める学問の自由に関しては、「東大ポポロ事件」がとくに有名です。
この事件は、1952年に東京大学が公認していた学生団体「ポポロ劇団」の演劇公演中に起きました。
冤罪事件だった松川事件を題材にした政治色の濃い演劇の公演中に、観客に交じって公安警察4名が潜入しているのを学生が発見。
学生たちは3名の身柄を拘束して警察手帳を取り上げたうえ、暴行を加えたのです。
争点ポイントは、
* 「大学の学問の自由・自治はどこまで及ぶのか」
という点です。
最高裁判所は、本件演劇は学問研究とはかかわりのなく、政治的活動であったとして、大学の有する学問の自由と自治には当てはまらないと判断。
警察官の立ち入りは大学の学問の自由と自治を侵すものではないという結論を下しました。
このことから、大学の自治は学問の自由の制度的保障であり、学生の政治的活動には認められないと判断されました。
まとめ
自由権は国からの理不尽な介入なく、個人が自由に行動できる権利で、基本的人権のひとつです。
戦前の反省を生かして、日本では「思想」「信教」「学問」「表現」「集会」など幅広い分野で権利が守られています。
これらの「自由」を守るのは、私たち自身です。
この記事を通して、自由権について改めて考えるきっかけとなれば幸いです。
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